2026-01-23
HaiPress
〈本を読もう、街に出よう〉
岩手生まれの天才歌人、石川啄木は東北出身の昭和世代に大変な人気だった。高度経済成長期、集団就職で上京した「金の卵」と呼ばれた若者たちは「東北からの玄関口」だった上野駅で第一歩を踏み出した。啄木の「ふるさとの訛(なまり)なつかし停車場の人ごみの中にそを聴きにゆく」に触発されて思い出の場所に足を運んだ人もいただろう。1910年に出版された歌集「一握の砂」は時代を超え、今も読み継がれている。(鈴木伸幸)

今も大勢の乗降客らでにぎわうJR上野駅=台東区で(田中健撮影)
「南部富士」と呼ばれた岩手山を望む寺の長男に生まれた啄木は幼少期に文学に目覚め、地元では知られた早熟の歌人だった。旧制中学を中退して文学者として一旗揚げようと上京。文京区本郷などで暮らした。

石川啄木(国立国会図書館ウェブサイト「近代日本人の肖像」より)
与謝野晶子や森鷗外、夏目漱石といった大家にも一目置かれた。しかし短歌では生計を立てられず、苦悩しながら啄木は「はたらけどはたらけど猶(なお)わが生活(くらし)楽にならざりぢっと手を見る」。その一方で「ふるさとの山に向ひて言ふことなしふるさとの山はありがたきかな」と望郷し、「たはむれに母を背負ひてそのあまり軽きに泣きて三歩あゆまず」と家族愛を詠んだ。
数々の名歌は出稼ぎや集団就職で故郷を離れ、慣れない都会で暮らす地方出身者の琴線に触れた。啄木の不幸は、その場、その時の心象風景を詠む天才だったが、長文の構成力に恵まれなかったことだろう。売らんがために小説も書いたが評価されず、健康問題もあって郷里に引き戻されること2度。釧路や函館で職を転々としたこともあった。

文京区との関わりを紹介するパネルなどが並ぶ石川啄木終焉の地顕彰室=文京区小石川で(田中健撮影)
結核のため26歳で夭折(ようせつ)。柔和な顔立ちも相まって、啄木には素朴な地方出身の苦労人といったイメージがある。だが金銭感覚はルーズ。大酒を飲み、芸者遊びのために、返す当てもなく借金を重ねた。中学時代の初恋の相手と郷里で結婚式を挙げることになったが、式をすっぽかしたことも。
才能を認めた親族や友人が職を世話したが、天...
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